【絶望の淵で選ぶ「死の尊厳」・私たちが日本で安楽死を議論すべき理由 涙とともに見た、命の輝きと、その後の残酷な現実】
アイズルームは「障害福祉」をテーマとしたBlog記事を毎日配信しております。
本日は日本における「安楽死」という重いテーマでBlogを配信します。
歓喜に涙が止まらないほどの「生きるエネルギー」が凝縮されたような試合でした。
しかし、その熱狂の後にテレビをつけた時、私の心は一瞬で凍りつきました。放送されていたのは、治癒不能な癌に苦しむ日本人女性が、スイスで安楽死を選ぶというドキュメンタリーでした。
体の自由を奪われ、激痛に苛まれながらも、最愛の夫とともに海を渡り、子供たちを含む家族とテレビ会議システムで最後の会話を交わす姿。涙を流しながら「さようなら」を告げたあの瞬間は、試合の感動とはまったく質の違う、人間の尊厳について深く考えさせる強烈な光景でした。
【スイスの選択】「幇助自殺」という名の希望
彼女が選ばざるを得なかったスイスの選択について、改めて冷静な事実をお伝えします。
日本では法律で認められていない「安楽死」ですが、スイスでは「幇助自殺」(Assisted Suicide)が合法的に認められています。これは、医師などの第三者が直接的に死をもたらす(薬を投与する)安楽死とは異なり、患者自身が致死薬を服用し、自らの意思で死を迎える方法です。
スイス刑法は、「利己的な動機に基づかない」限り、死を幇助する行為を犯罪としないと定めているため、ディグニタスなどの団体が、治癒の見込みがなく、永続的な苦痛に苦しむ人々にこの選択肢を提供しています。
しかし、考えてみてください。なぜ、死を望む人間が、愛する家族を残し、異国の地へ、孤独な「死への旅」に出なければならないのでしょうか?
「机上の空論」を振りかざす偽善者たちへの怒り
私自身、波乱万丈の人生を生き、末期患者やALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者、極限の貧困にいる人々といった社会の弱者と、社会貢献活動を通して真摯に向き合ってきました。その経験から、私は安楽死についての確固たる意見を持っています。
治癒の見込みがない難病に苦しんでいるなら、癌が全身に転移し激しい苦痛で、もはや人間としての尊厳が守れない状況にあるのなら、日本でも安楽死を認めるべきです。
生きることを決めるのは、周りではなく、自分自身です。
「どんな病気になっても最後まで生き抜きたい」という選択を優先する人がいても構いません。それはその人の尊厳です。
しかし、「もう十分だ、これ以上の苦痛は受け入れられない」と自ら死を選びたいと望むことも、人間としての、最後の尊厳です。
「生きていれば、良いことがある」「どんな命も素晴らしい」という一般道徳論は、治れない病で、のたうち回って死ぬという現実を前にすれば、ただの偽善者の言う理想論に過ぎません。
健康な学者や医者、恵まれた環境にある人間に、病の苦しみは理解できません。重い病や障害、極度の不幸を経験してみない限り、「死にたい」という極限の気持ちは、一般の方々には絶対に理解できないでしょう。彼らが何を言っても、それは当事者の声を聞かない、机上の空論でしかありません。
私たちの社会が問われていること
このお母さんが選んだのは、これ以上苦しみながら生きることを強いられるよりも、自らの意思で人生の幕を閉じる「尊厳ある終わり方」でした。彼女は、「自分の尊厳が守られなければ、生きていてもしょうがない」という究極の選択をしたのです。
世の中には、治療しても治らない病気が山ほどあります。やがて意識を失い、植物人間のような状態になってしまう病もあります。
そのような状況で、本人の意思を確認し、延命治療を続けるのか。
それとも、自らの選択で死を選ぶことを認めるのか。
私は、この選択は本人自身に委ねるべきだと強く主張します。
私たちは、この問題から目を背けず、「人の命は神聖である」という道徳の鎖を外し、個人の苦痛からの解放と自己決定権の尊重を、新しい人権として捉え直すべきではないでしょうか。
治癒不能な苦痛の連鎖を断ち切り、穏やかな最期を望む人々の声に、日本社会はいつまで耳を塞ぎ続けるのでしょうか。この問いかけを、アイズルームのブログ読者の皆さん一人ひとりに投げかけたいと思います。
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