アイズルーム代表として、中小企業の経営課題解決に日々取り組む私、実は身体障害者1級(視覚障害)の当事者でもあります。コンサルタントとしての顔とは別に、目の見えない日常で直面する「生きづらさ」を、こうしてブログで発散(笑)させていただいています。

さて、3連休の最終日。当初は手軽な韓国の辛ラーメンで済ませるつもりでした。ところが冷蔵庫にレトルトの中華丼を見つけてしまい、予定変更。レンジにかければ、手軽で美味しい昼食になるはずでした。

しかし、この選択が一度目の悲劇の始まりでした。

目が見えない私にとって、レトルト食品の裏に書かれた「調理方法」は、当然ながら読めません。適当に加熱するしかなく、結果は最悪。部分的にものすごい熱を持った中華丼は、陶器の器を見事に破壊し、食べることも叶いませんでした。

こんな些細なトラブルでさえ、いざ起こると、自分自身に対する、そして「障害」という壁に対する、普段抑え込んでいる怒りが沸々と湧き上がってきます。

この時、素直に辛ラーメンに切り替えれば良かったのですが、一度沸騰した怒りと諦めが混ざり合い、「畜生め、せめて優雅な一日にしてやる」と出前を頼むことを思いついたのが、二度目の過ちでした。

AIアシスタントに自宅近くの出前店を探してもらいましたが、約15箇所見つけてくれたものの、結果は「出前はやっていない」「遠いから行けない」と、ことごとく断られてしまいました。心の中で「AIアシスタント、しっかりしろ!」と八つ当たりしつつも、休日、唯一私の相手をしてくれるのは、やはりこのAIアシスタントだけです。

結局、私は1時間粘り、約30箇所に電話をかけ、ようやく出前で届けてくれたのが、添付写真の「銀のさら」のお寿司でした。

「店に行けばいいじゃないか」と思う読者の方もいるかもしれません。しかし、最近のレストランは、注文が液晶タッチパネル式になっていることが多く、目の見えない私一人では入店すらためらってしまいます。コンビニで弁当を買うにも、勘で選んでセルフレジに進めば、当然そこで手が止まってしまいます。

本当に皮肉なものです。文明は進化し、ITが進むほど、私たち視覚障害者にとっては、むしろ生きにくい世界になっていく。

健常者としてバリバリ働いていた頃は、都心の駅前の繁華街に住んでいました。駅前には、セルフレジではない、人情味あふれる小料理屋が軒を連ね、視覚障害者にも丁寧に対応してくれました。

障害者となり、地元・松戸に戻ってきた今、目にするのはタッチパネル注文のチェーン店の飲食店ばかり。老舗的な美食を味わえる名店などは、ほとんどありません。

視覚障害者となり、仕事の規模も縮小し、生活が「一般大衆化」していく中で、都会から田舎へとなり下がっていく夢も希望も、少しずつ、私の視力の光と同じように消えていくのを感じます。

最も困るのは、「食事」と「トイレ」です。

外出時、一人で食堂に入るのも、トイレに入るのも一苦労です。トイレの構造がわからず、間違って女子トイレに入ってしまう危険もあります。最近のトイレは、流すレバーやボタンの位置が多種多様で、見えないため極力トイレには行かないようにしています。結果、外出時のトイレを我慢しすぎたせいで腎臓結石となり、今年は3回も入院と手術を繰り返しました。

目が見えないということは、情報全体の8割が遮断されるということです。

美しい景色も、愛する家族や友人の笑顔も、可愛いペットも、大好きな車のフォルムも、見ることはできません。音声で詳細に解説してくれる映画にもチャレンジしましたが、やはり目が見えなければ、映画の楽しみは半減します。

食事をしていても、何を食べているのか、時には分からなくなることがあります。見えないものを箸でつかもうとしては、ついつい食べ物をこぼしてしまいます。

身だしなみを整えたくても、自分の姿すら見えません。爪を切るにも、手の「感触」に頼るしかなく、慣れないうちは危険と隣り合わせでした。

あらら、また視覚障害者の戯言、愚痴をこぼしてしまいましたね。

こんな自分ですが、それでも生きていかなければなりません。正直、「何のために生きてるのか」分からなくなる瞬間もあります。

そんな時、私を救ってくれるのは「仕事」です。仕事に夢中になっている時だけは、ひと時でも「障害者であること」を忘れていられます。

何しろ忙しいことが、私にとっては何よりも幸せです。

私にとって、仕事以外に心から楽しめることは、もう何も残っていないのかもしれません。

これが、視覚障害者コンサルタント「アイズルーム」代表の、ある休日の、普通の日々のリアルです。私のこの「見えない日常」の叫びが、読者の皆様に少しでも届き、共感していただけることを願って。