【絶望の淵から見出す「生きる意味」・格差社会の闇と共生社会への希求 アイズルームからのメッセージ】
今日のブログで深く問いかけたいのは、「なぜ人間は生きなくてはならないのか」という根源的な問いです。
貧困、障害、難病、孤独、差別――。これらは、多くの人が死を選ぶ理由として挙げざるを得ない、重く冷たい現実です。警察や公的機関からのご依頼で、こうした深刻な問題を抱える方々のヒアリングから問題解決に至るまで、文字通り、その方に寄り添い、共に歩む支援をさせていただくケースも少なくありません。
私自身もまた、様々な病気や障害を抱え、常に「何のために生きているのか」と自問自答を繰り返す人生を送ってきました。もし、私の人生が順風満帆で、何の苦労もなく幸せに暮らしていたとしたら、恐らく今の仕事に就くこともなかったでしょう。心と体に問題を抱えた方々の痛みを、真に理解し、寄り添うサポートもできなかったと確信しています。健康面でも経済面でも、常に波乱万丈の人生を歩んできましたが、最終的に私に残されたものは、この「仕事」でした。
私には特別な趣味はありません。しかし、仕事をしている時が一番の幸せを感じる瞬間です。寝る、食べる、仕事。この三つの繰り返しで、私自身は十分に満たされています。
こんな私でも、なぜか人々を引きつけ、お客様からの相談の電話やメールは途切れることがありません。私を支えてくれる優秀なスタッフにも恵まれ、たとえ目が見えなくても、この仕事を続けていられることに感謝しています。
「生きる」ということへの問いかけ:光を求める世界の子どもたち
さて、「生きる」というテーマについて、世界に目を向けてみましょう。
例えば、発展途上国と呼ばれる地域や、国内に極度の貧困を抱える外国の一部では、幼少期から、悪臭を放つ巨大なゴミの山の中で、生活の糧となるリサイクル品を求めて這いずり回る子どもたちがいます。トタン屋根の小さな家々が密集し、異臭と埃にまみれた集落で、彼らは家族や仲間と身を寄せ合い、極限の貧困の中で生きています。満足に学校に通うこともできず、教育の機会を奪われている子どもたちが多く存在します。
しかし、そうした極限の状況にある子どもたちほど、「学校に行きたい」「学校の先生になりたい」「医者になってみんなを助けたい」といった、切実で具体的な夢を、瞳を輝かせながら語るのを耳にします。彼らにとって、「生きる」ことは、「未来への希望」と強く結びついているのです。
経済大国・日本の抱える「死」の闇
一方、私たち日本はどうでしょうか。経済大国と言われながら、未成年の自殺は深刻な社会問題となっています。株価が上がり、富裕層がより豊かな暮らしを謳歌する裏側で、貧困格差は広がり続け、特に母子家庭の半数近くが貧困に苦しんでいるという現実があります。さらに、精神疾患の患者数は増え続けており、社会全体が大きなストレスを抱えていることは明らかです。
「こんな日本にしたのは、無能な政治家のせいだ」と憤る声もあるでしょう。しかし、その政治家を選んだのは、他でもない私たち国民自身であるという事実から、目を背けることはできません。
確かに日本には、最低限の生活を保障するセーフティネットが存在します。外国の貧困国のように、完全に学校に行けず、食料も手に入らないという状況は、稀かもしれません。最低限、ご飯は食べられる。そう言えるかもしれません。
それでも、この社会で「孤独」を感じ、社会に疑問を投げかけ、時には怒りを覚えて、全く関係のない人々を殺傷するという、痛ましい事件が多発しています。
失われた「共生」と未来への祈り
私が生まれた東京オリンピックの頃、日本は今よりもずっと経済的に苦しかった時代です。しかし、国民は「復興」という一つの大きな目標に向かって、がむしゃらに頑張っていました。社会全体に、強い一体感と未来への希望があったように感じます。
その後、日本はアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となり、バブル経済の中で、人々は有頂天になりました。この時期に、私たちは大切な何か、例えば「他者への共感性」や「謙虚さ」といった日本人の本質的な美徳まで失ってしまったのではないでしょうか。
現在、自民党と日本維新の会が連立を組み、新たな政治の枠組みが構築されようとしています。大阪と東京という二大都市圏が連携を組むことで、国全体に新しい動きが生まれるかもしれません。
アイズルームは心から祈ります。この連携が、単なる経済成長のためだけでなく、貧困の格差が少しでも縮まり、自ら命を絶つ人が減る社会へと繋がることを。
障害や病気を持っていても、貧困家庭に生まれても、全ての方が「生きていて良かった」と心から感じ、幸せに生きられる共生社会の実現こそが、アイズルームの変わらぬ願いです。困難な現実にこそ、生きる意味を見出す光は宿っています。私たちはその光を、共に探していきたいと強く思っています。