【還暦を迎えた社会起業家の覚悟:「対価なき施し」にこそ宿る、人間の真価】

同時に、その原動力は、裕福になりたいという強い渇望でもありました。「人よりもいい車に乗りたい」「誰よりもいい女を抱きたい」という、若さゆえの欲望に満ち溢れていたように思います。
医療系ベンチャー企業を立ち上げ、残業や徹夜は当たり前。納期が迫れば連日のように会社に泊まり込み、陽をまたぐことも厭いませんでした。働けば働くほど収入が増え、会社は飛ぶ鳥を落とす勢いで成長し、従業員も増えていきました。そのイケイケどんどんなやり方があだとなり、大きな失敗を経験したことも一度や二度ではありません。
しかし、その成長の過程で、上場企業の方からも声をかけていただき、取締役として東証プライム企業の経営まで学ばせていただきました。自分自身の成功体験と大きな失敗、そして日本を代表する企業の経営を内部から学べたことは、大きな転機となりました。
第2部:転機と覚醒~私欲から社会課題へ
自らの会社が成長し、地位と名誉を手に入れたとき、私の関心は「自分自身の私利私欲でやっていた事業」から、まず「従業員の生活と幸福」へと移っていきました。彼らが安心して働ける環境を整えることが、私の新たな使命になったのです。
そして、そのさらに先にあったのは、自分自身や従業員のためだけでなく、「社会課題を解決する」という大きなテーマでした。
私は事業を分社化し、「ソーシャルビジネス」の領域へと舵を切ります。利益の出る事業会社から、社会課題を解決する福祉関連企業へ資金を回す仕組みを構築。生活弱者の方たちを支援することが、私の最終目的となりました。利益追求型のビジネスで得たリソースを、無利益型の社会貢献に還元する。これこそが、私なりの「富」の再定義でした。
第3部:還暦の到達点~真の施しは「無償」に宿る
ここでの重要なテーマが、「援助の無償性」です。
私は今、人を援助する際、ほぼ無償で活動できています。自分自身がつつましく暮らせば、年金中心の生活でも最後まで過ごせる見通しが立ちました。
ここで私は、長年の経験から一つの確固たる考えに至りました。
福祉事業所であれ、お寺の住職であれ、宗教活動であれ、誰かからお金(対価)をもらって何かをしていれば、それは商売です。国からの補助金や助成金、寄付金、お布施、これらはすべて「経済活動」であり、お金という対価をもらってサービスを提供している点で、本質的には「仕事」であり「商売」に他なりません。
私はそれらの活動自体を否定するつもりはありません。そのサービスを必要としている人がいて、社会的に役に立っているのであれば、お金をいただいても、行政から助成金を得ても、その支援は社会的に重要だと考えます。
しかし、あえて問いたいのです。
真の意味で人に寄り添う「まことの精神」は、無償であるべきではないだろうか、と。
歴史を振り返れば、他者に対する支援を「対価なし」で行ってきた方々は数多く存在します。対価を求めた時点で、それは「仕事」や「商売」という経済活動の範疇に入ります。どれほど高邁な理想を語る政治家であっても、高額な収入を得た時点で、その活動は「ただの仕事」という側面に帰着してしまうのです。
補足:無償の愛と献身の哲学
この私の考えに最も近いとされるのは、キリスト教における「アガペー(Agape)」の概念でしょう。アガペーとは、見返りを一切求めない、神から人への無条件で無限の愛を指します。また、哲学者の中には、無償の贈与が資本主義経済の代替となり得るかを探求する者もいます。
私の行動は、利益追求の「エロス的な欲望」から始まり、最終的に「アガペー的な無償の愛」による社会貢献へと到達した、一種の哲学的な旅路だったのかもしれません。
人は生まれてきて、何を成し遂げるべきなのか?
それは、個人の欲望を満たすことではなく、最終的に「対価なき施し」を通じて、他人のために生きることを選ぶことではないでしょうか。
私自身の人生の結論:
若い頃は自分のために欲を追求し、次は社員のために事業の安定を求め、そして還暦を迎えた今、見返りを求めず、社会の弱者・生活弱者のために尽くす「無償の奉仕」こそが、一人の人間が成し遂げうる最高の貢献だと確信しています。
#ソーシャル起業家の最後の覚悟 #アガペー #無償の愛 #真のボランティアとは #還暦からの社会貢献 #利他の精神