【「熱血支店長奮闘記」上場準備中の企業のエースがモノレール建設中の沖縄へ!美しい海と闘志が織りなす「再建」と「夢」の記録】

添付の写真は、先日訪れた沖縄物産展の様子です。この雰囲気を目にすると、私の胸には当時の情熱がよみがえり、忘れられない沖縄での日々の記憶が鮮明によみがえってきます。今日は、私の人生の大きな転機となった沖縄での奮闘の思い出をご紹介させてください。
《モノレール工事と情熱の再建ミッション》
私が沖縄に降り立ったのは、ちょうど沖縄市内でモノレールの工事が進められていた時期でした。歴史館での記憶によれば、戦前には那覇から与那原方面まで鉄道が走っておりましたが、戦争で破壊されました。私が暮らしていた頃は公共交通機関といえばバスが主役。その中で、新しい時代の象徴としてモノレールがまさに形作られている最中でした。
当時の私は、銀座に本社を構え、まさに上場準備に入っていた全国展開の会社に勤めていました。日本全国の主要都市に営業所を持ち、海外では中国の蘇州と韓国のソウルに関連会社を持つグローバルな企業です。私は、その韓国の会社役員も兼任しつつ、本社では社長の側近として社長室室長という要職を務めていました。
上場準備という重要な局面を担う社長室の統括は私でしたが、業務は多岐にわたり、役割の異なる3人の優秀な美人秘書たちがサポートしてくれていました。
一人は、ネイティブレベルの語学力でグローバルな取引先や海外関連会社との橋渡しを一手に担うスタッフ。
一人は、多忙を極める社長の分刻みのスケジュールを完璧に管理し、常に一歩先を読む戦略的な秘書。
そしてもう一人は、トップクラスの取引先(ドクター)対応を専門とし、その方々の接待や特別なニーズに合わせ、細やかなコーディネートを担うホスピタリティのプロでした。
私たちはクリニックの経営コンサルやレセプト開発、営業支援システムといった高額な医療システムを開発・販売しており、自然と医師(ドクター)の方々との接待は頻繁に行われていました。
そんな多忙な日々の中、私に下されたのが「沖縄支店のテコ入れと売上回復」という、社長からの至上命令でした。全国展開する会社にとって、売上の低迷は許されません。私は優秀な営業マンを選抜し、沖縄支店長として現地に乗り込むことになったのです。私のミッションは、支店の統括と営業部の再編。闘志に燃えて沖縄へと向かいました。
《繁華街の松山、熱血営業、そして奇跡のV字回復》
沖縄での事務所は、不謹慎ながら夜遊びには最適な繁華街の松山に近い場所にありました。社長やお客様であるドクターの方々も定期的に沖縄へいらっしゃるため、その度に観光の手配はもちろん、夜の接待のコーディネートも私の重要な仕事でした。
しかし、昼間は一転。私は文字通り営業マンたちの尻を叩き、営業所は活気に満ち溢れた空間へと変わりました。
再建初動として、私たちは国際通り近くの安里という場所にあるウィークリーマンション(家賃15万円)に、選抜した営業マン2人と私の3人で住み込みました。昼も夜も仕事の話をしているのですから、成績が上がらないわけがありません。
朝の朝礼では、営業マンに見込み客を出してもらい、私は彼らに同行営業。最終的なクロージングは私が担当しました。自分で言うのもなんですが、私はずば抜けた営業センスがあり、目の前に座って話すことができれば、50%という驚異的な確率で高額な医療システムを販売することができました。特に私の特技は、高学歴で高収入な医師の方々ほど、論理的に説得しやすいということでした。
この熱血指導と住み込み戦略が功を奏し、私が就任して早々に、沖縄支店の営業成績は瞬く間にトップクラスへとV字回復を遂げたのです。
《海と空が教えてくれた人生の夢》
土曜の週末、仕事の疲れを癒すのは、会社からほど近い波の上のビーチでした。私は一人でボーっと日焼けをしながら、青い空と海をただただ眺めていました。
3ヶ月が過ぎ、高額だったウィークリーマンションから、空港からほど近い小禄という場所へ引っ越しました。ここは少し高台にある高級住宅地。当時の沖縄では家賃8万円でも、RC造りのしっかりした良いマンションに住むことができました。この8万円のマンションに、また3人で住み込みを続けました。
沖縄は、本当に素晴らしい場所でした。
本土とは異なり、時の流れがゆったりと感じられ、どこまでも続く海は真っすぐで美しい。私は「老後はここで移住しよう」と強く心に誓ったものです。沖縄そばやオリオンビールなど、本土にはない独特の食文化も私を魅了しました。
最後に沖縄を訪れたのは、幸いにもまだ視界にわずかに靄がかかっている程度で、海と空の青さを感じられた頃。そして、世界遺産首里城が火事になる前でした。国際通り近くの市場で食事を楽しみ、私が一番大好きなホテル、日航アリビラに心ゆくまで滞在しました。
還暦を迎えた今、残念ながら私は視覚障害者となり、あの美しい海や青い空をこの目で見ることができなくなってしまいました。今は福祉サービスが充実している都会でしか暮らせない体になってしまいましたが、沖縄のような車社会では、私のような視覚障害者には生活が難しいのが現実です。自動運転の車が早く開発されることを心から願うばかりです。
今は目が見えず、暗黒の世界ですが、私の心の中には、あの日の沖縄の空と海の景色が、力強い記憶としてかすかに残っています。あの時に感じた情熱と、美しく、優しかった沖縄の景色は、私の人生の宝物です。
皆様の心にも、この沖縄での熱い日々が、何かを始める勇気となって伝われば嬉しいです。