​まず、私たちは今、コミックエッセイ『妹なんか生まれてこなければよかったのに きょうだい児が自分を取り戻す物語』について、その核心に迫ろうとしています。
​この作品は、障害を持つ妹・桃乃がいることで、自身の幸せを阻まれていると感じる主人公・透子の葛藤を描いた物語です。
​透子は恋人からプロポーズを受けますが、妹の障害を理由に相手の母親から結婚を反対され、「いつもそうだ、あいつのせいで幸せになれない」という魂の叫びを抱えます。
​あなたは、このコミックエッセイのタイトルを読んだだけで、その本質を本当に理解できたでしょうか?福祉の現場に立つ私たちにとって、ここに描かれた現実は「当たり前」の日常であり、表面的な物語だけでは、その真の過酷さは伝わりきらないのかもしれません。
​この題材は、漫画やコミックという表現方法に収まるような「簡単な話題」ではないかもしれません。実際に書籍を開いて初めて、言葉を尽くさないと伝わらない重みがわかるのかもしれないと、私自身も感じています。
​多くの人が抱く「漫画を見て笑う」という日常的な心の余裕。しかし、本当に苦しみの淵にいる時、人は歌すらも心で聴くことができなくなります。心が揺さぶられる感動すら、心の「余裕」の証なのだと、あなたは考えたことはありますか?
​家族に重度障害があり、世間からの根強い偏見に晒されながら生きる時、そこには言葉に出せない、誰にも理解され得ない辛さがあります。他者がどれほど「共感した」と感じても、その本当の辛さは、障害者家族にしか絶対にわからない領域なのです。
​作中で示唆されているように、重度障害者を受け入れるための施設への入所は、極めて困難な現実があります。
​神経麻痺による不随意運動、よだれや汚物の処理など、重度の障害が伴う生活の厳しさは、健常者には想像し難いものです。
​こうした現実に実際に深く関わった経験がないと、「汚い」「だらしない」といった無理解な偏見を持ってしまう人が出てしまうのは、残念ながら現実です。
​それは障害者だけでなく、高齢になり認知症が進み、おむつが必要になる状況も同じです。誰しも健康寿命を保てるわけではありません。それは老いて生きるということの一部であり、生まれた時に逆戻りしたかのような介護が必要になります。
​あなたが元気で健康な時、これらのことを真剣に考えることはないでしょう。しかし、人生は脆いものです。たった一つのバランスを崩すだけで、障害や病気によって、その「厳しさ」に直面することがあるのです。
​私たちは、誰かの苦しみを単純化せず、偏見を持たない社会で生きることを目指さなければなりません。この物語を通して、あなたの心に、言葉では表現しきれない何かが響いたことを願っています。