【生かされる苦悩と自己決定の権利、救済の現場から見える現代日本の断絶】

      

【生かされる苦悩と自己決定の権利、救済の現場から見える現代日本の断絶】

生活困窮者が生活保護申請の相談をしている画像

​障害福祉の最前線で活動するEYESROOMです。私たちは約20年前から、難病患者や障害者、そして主に貧困の中にいる方々の支援を続けてきました。
​時には、自殺未遂の現場に遭遇して玄関を壊し、命を救うために突入することもあります。警察や検察からの依頼を受け、司法の場と福祉の架け橋として現場に駆けつけることも日常です。病気、貧困、精神疾患。私たちが向き合う命の現実は、綺麗事では済まされない過酷なものです。
​しかし、多くの命を救う活動をミッションとして掲げながらも、私は冷静に自問することがあります。生かされること、生き続けることのすべてが、本当にその人にとっての幸せなのでしょうか。
まずは、現代の介護現場で起きている、ある切実なニュースを要約して共有します。
​ニュース概要:高齢者の消極的死願とその背景
​50代の会社員の娘さんは、90代の実母を介護する日々の中で、母が繰り返す「死にたい」「早くお迎えが来てほしい」という言葉に心を削られていました。最初は励ましていた娘さんも、次第に気力を失い、ついには「母の望み通りに」と願ってしまう自分に自己嫌悪する悪循環に陥っていました。
​専門家によると、高齢者が口にするこうした言葉には、3つの背景があるといいます。
​1.身体的要因:体の痛みや、排泄の失敗など、当たり前にできていたことができなくなる喪失感。
2.社会的要因:友人との死別や役割の喪失による、誰からも必要とされていないという孤独感。
3.心理的要因:子供に迷惑をかけているという申し訳なさ(対人的負債感)。
​これらは「老人性うつ」などの病気が原因である可能性もあり、周囲は否定も肯定もせず話を聞く受容的傾聴や、医療との連携、そして本人が最期をどう迎えたいかを話し合う人生会議(ACP)への転換が推奨されています。
​以上がニュースの要約です。
​ここからは、私の個人的な経験と、EYESROOMの代表としての視点をお話しします。
​私の母も90歳で他界しましたが、最期は車椅子生活となり、自由の利かない体で「生きていても何もいいことがない」と漏らしていました。
​もし潤沢な資金があれば、旅行を楽しみ、美味しいものを食べて、最期まで人生を謳歌できるのかもしれません。しかし、今の日本はどうでしょうか。45年間、懸命に働き続け、社会保険を納め続けても、受け取れる年金は決して十分な額とは言えません。
​特に、非正規労働者やパート従業員、専業主婦として国民年金のみを納めてきた方々の月額は、尊厳ある老後を支えるにはあまりに心許ない数字です。今の日本の老後は、決して明るいものではありません。統計上、約3分の2の人は幸福感を持っているのかもしれませんが、残りの3分の1の人々にとっては、そこは地獄のような場所になっているのが現実です。
​これは高齢者に限った話ではありません。大手企業の正社員と非正規労働者の格差は開き続け、富は偏っています。どれほど必死に働いても、年金やセーフティネットである生活保護では、人間らしい最低限の生活を維持できないケースを私は何度も見てきました。
​これほどまでに「生きづらい」世の中で、死にたいと願うこと。それは決して異常な考えではなく、むしろ過酷な現実に直面した人間が抱く、最も切実で本質的な叫びではないでしょうか。
​障害を抱えた人、難病に苦しむ人、貧困から抜け出せない人。それぞれの困難が重なり合った時、本人の意思を確認した上で、薬を使って安らかに永眠できる権利が認められている国も世界にはあります。自分の命を自分で決められる世界の必要性を、私は否定できません。なぜなら、自死は周囲に多大な負担をかけますが、制度として認められた最期であれば、それは尊厳ある終止符になり得るからです。
​幸せの中にいる人には、この「命を軽んじている」ようにも聞こえる議論は理解できないかもしれません。しかし、現場で弱者救済に奔走してきた私にはわかります。生きていても何もいいことがない、そう思わざるを得ない絶望の中に、あまりに多くの人々が取り残されているのです。
​命を救うことは大切です。しかし、それと同時に、救った後の人生が苦痛に満ちたものではないと言い切れる社会を作らなければ、本当の意味での救済にはなりません。現代社会の闇は深く、構造的な不平等は今も拡大しています。
​私たちは、この「生きづらさ」の正体から目を逸らさず、どうあるべきかを考え続けなければなりません。EYESROOMは、これからも現場で闘い続けます。しかし、個人の努力だけでは限界があることも、また事実なのです。皆さんは、この現状をどう考えますか。 
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