​今月、母の四十九日法要を予定している。そこで直面したのは、お寺から提示される「お塔婆」や「お供えもの」といった、まるでお品書きのような様々なオプションの提示だった。
​私は無宗教である。その立場から、今の宗教のあり方、そしてそれを取り巻く社会構造に対して、どうしても拭えない強い違和感と憤りを感じている。今回は、この個人的な体験から見えた「宗教という名のビジネス」と、私たちが向き合うべき社会課題について綴りたい。
​祈りよりも「金」が優先される歪な構造
​本来、宗教とは人々の救いや心の平穏のためにあるべきものではないか。しかし、現実はどうだ。修行を積んだはずの僧侶たちが、生活困窮者からもお布施を募り、自分たちは税制優遇の恩恵に預かりながら贅沢な暮らしを享受している。
​もし本当に神が宿り、慈悲の心があるのなら、なぜ全ての儀式を有償にする必要があるのだろうか。運営が必要ならば、志のある人からの寄付だけで成り立たせるのが筋ではないか。拝むことにも、供養することにも、細かく値札が貼られている現状は、私には到底「聖職」とは思えない。
「神」の不在を証明する現実
​「神様がいるなら、なぜ世界から戦争がなくならないのか」
「なぜ、何の罪もない小さな子供が無残に死ななければならないのか」
​この問いに対する明確な答えを、私はまだ知らない。それどころか、宗教同士の対立が引き金となり、凄惨な紛争が繰り返されているのが世界の現実だ。神の名の下で行われる対立と搾取。その矛盾を前にして、形式だけの儀式に大金を投じることに、一体どのような意味があるというのか。
特別な人間など一人もいない
​宗教のリーダーも、結局は一人の人間に過ぎない。特別な才能や神通力があるわけでもなく、私たちと同じ弱さや欲を持った存在だ。それなのに、なぜ彼らが特権的な地位に座り、人々から「吸い取る」側でいられるのか。
​人間はみな平等である。誰かが誰かより特別に「尊い」わけではない。その根源的な真理を忘れた組織が、伝統や格式という言葉で人々を縛り、経済的な負担を強いる。この構造こそが、現代社会が抱える大きな闇の一つではないだろうか。
読者の皆さんへ問いかけたい
​私は、形式を重んじることを全て否定するつもりはない。しかし、そこに「心」ではなく「金」の論理が優先されているのであれば、それはもはや信仰ではなく、単なる不透明なビジネスだ。
​邪道と言われるかもしれない。だが、違和感を押し殺してまで守るべき伝統などあるのだろうか。私たちは、もっと正直に「おかしい」と声を上げるべきではないだろうか。
​宗教のあり方、そして人間が救いを求める先の正体について、皆さんはどうお考えだろうか。