​ある80歳の医師が、世間一般で理想とされるピンピンコロリを否定する持論を述べています。健康なままある日突然逝くことは、遺された家族に心の準備をさせず、本人も人生の最終的な整理ができないまま終わってしまうから良くない、という趣旨です。
​確かにその医師の言うことにも一理あります。人生の幕を閉じる前に、大切な人へ感謝を伝え、身の回りを整える時間を持つことは、人間としての尊厳や美徳かもしれません。しかし、そうした「理想の死」を語れるのは、本人が現役で働き、収入もあり、心身ともに満たされた幸福な環境にいるからではないでしょうか。
​私自身、還暦という節目を迎えましたが、2年前から全盲となり、両足には絶えずしびれが走っています。正直なところ、心の中では今日死んでもいいという思いが常にあります。一日一日を精一杯生きようとはしていますが、思うように体が動かず、視界も閉ざされた中で、その精一杯という言葉すら空虚に響くことがあります。
​医学的な観点から見れば、衰えていく過程に価値があるのかもしれません。しかし、現実はそれほど美しくも、教科書通りでもありません。医者という立場なら、病や障害を抱える人々を治療することで対価を得られるかもしれませんが、当事者にとっての現実は全く別次元の話です。重いように体が動かず、精神状態も疲弊し、その上でもし生活の糧もままならない状況であれば、人生はただただ苦しい修行でしかありません。
認知症の予防と視覚障害者の特性についてイメージした画像です。
子供たちは立派に成長し、両親も他界し、もはや私を必要とはしていません。生きる目標を見出すためにボランティア活動に没頭してはいますが、それが心の底から幸せだとは言い切れないのが本音です。仕事一筋で歩んできた私には、時間を忘れて楽しめるような趣味もありません。自分一人の時間を趣味で埋めて楽しむといったことは、私にとって何の価値もないのです。
​世の中には、私と同じように心の悩みを抱え、身体の痛みや障害とともに生きている人が数多くいます。私たちが運営する福祉支援 EYESROOM(アイズルーム)では、そうした方々の心のケアを行っています。しかし、これは単なる奉仕ではありません。実は私自身が、生きる目的を見失いそうになっているからこそ、同じ痛みを抱える人たちと向き合っているのです。
​幸せな人に人の痛みはわかりません。苦しい人生を送ってこなかった人に、貧困家庭や障害を抱えた生活の本当の苦労は伝わりません。人生とは、時として持て余すほど長く、生きることは決して簡単ではない暇をもてなすようなものです。
​医学が説く理想論と、生きるための厳しさは、決して交わることのない平行線なのかもしれません。綺麗事では済まされない泥臭い現実がある。その対極にある視点こそが、今、私が福祉の現場で向き合っている真実なのです。