【時代と共に変わる見送りの形と、仏教の本質】

      

【時代と共に変わる見送りの形と、仏教の本質】

5.5畳の洋室の部屋にある水色のハーフカーテンと、槍投げ選手のパネル写真の画像です。

​今日、6月10日は今年3月に90歳で旅立った私の母親の誕生日です。
​そんな大切な日に、歯科医院に勤めている長女がわざわざ我が家を訪れてくれました。少し早い父の日のプレゼントにと、ニトリでカーテンを購入し、取り付けてくれたのです。
​娘は私の誕生日や父の日の贈り物を、毎年欠かさず用意してくれます。お墓参りの途中に立ち寄ってくれたのですが、手にはおばあちゃんが喜ぶような、とても明るい花を持っていました。母親の遺骨が眠るお寺は、私のマンションから歩いて8分ほどの高台にあります。娘はそのお墓参りのついでに、我が家へ足を運んでくれたのでした。
​家族の優しさに触れるたび、私はいつも心が温かくなります。長男からも少し前に素敵な誕生日プレゼントをもらいました。私が松視協の副会長に就任したため、その名刺のデザインと印刷を引き受けてくれたのです。長男はYouTubeの動画編集なども手がけており、グラフィックデザインが大の得意です。いつも本当に格好いい名刺を作ってくれるので、親としてとても頼もしく、感謝しています。
​こうして子供たちに囲まれて過ごす中で、今日はお墓参りの日ということもあり、過去の見送りについて色々と考えていました。
​実は今から18年ほど前、長年失踪していた私の父親が突然姿を現したことがあります。それから数年間は交流があったのですが、その後、父親は交通事故で亡くなりました。当時の葬儀はいわゆる一般的なお葬式で、費用は250万円ほどかかりました。
​一方で、今年亡くなった母親の見送りは全く異なる形でした。私が全盲ということもあり、実務は全て姉が執り行ってくれたのですが、私たちは「直葬」という形で母親を見送ることにしたのです。
​この見送りの形については、母親が生前のうちに私が本人へ確認し、了承を得ていたものでした。直葬にかかった費用は、諸々を含めて約25万円。父親の時の10分の1ほどです。
​直葬と聞くと、どこか簡素で寂しい印象を持つ方もいるかもしれません。しかし、私たちの場合は全く違いました。火葬までの2日間、家族葬用の小さな葬儀場に母を預かっていただいたおかげで、お別れする時間は比較的多く持てたのです。
​さらにそこでは、納棺師という専門の方がお見えになり、母の身支度やお化粧を整えてくださいました。私たちはその納棺の儀式を、家族みんなでお手伝いするという形で参加したのです。プロの手を借りながら、親族だけで2時間ほどかけて、ゆっくりと心を込めて母を送り出す準備ができました。
​今になって静かに振り返ってみると、父親の時のように大きなお金をかけた一般的な葬儀よりも、今回の母親のように、家族葬用の温かい空間で過ごした濃厚な時間のほうが、別れの儀式として圧倒的に正しかったと感じています。
​お酒を飲んで賑やかに話をするよりも、本当に故人を大切に想う人たちだけが集まり、これまでの思い出を一つずつ語り合う。それこそが、大切な家族を送り出す本来の姿ではないでしょうか。
​現在、関東地方における直葬の割合はすでに30%を超えていると言われています。私の住む地域は東京に最も近い場所にあるため、おそらく35%ほどに達しているはずです。時代は確実に変化しています。
​江戸時代に作られた仕組みのように、大きなお金をかけて見栄えの良い葬儀を行い、何回忌もの法要を重ねてお寺を儲けさせる。あるいは、長い戒名をもらうために高額なお金を支払う。そんな不合理な古い時代は、もう終わりを迎えているのだと思います。
​本来の仏教の教えを紐解けば、豪華なお墓を建てろとか、葬儀を盛大に執り行えなどということは、どこにも書かれていません。豪華な墓も、きらびやかなお葬式も、元々の仏教には必要のないものなのです。また、先祖を派手に供養したり立派な墓を作ったりしないと不幸になるというような、脅しのような教えも、仏教の本質には全く存在しません。
​仏教の原点、つまり基本に立ち返ってみれば、見栄を張って豪華な葬儀を行ったり、大きなお墓を建てたりすること自体のほうが、元々は不自然でおかしな姿だと言えます。
​形だけに囚われて大金を費やすよりも、残された家族が故人を心から想い、温かい記憶と共に静かに送り出すこと。それこそが、旅立つ人にとっても、見送る家族にとっても、最も豊かで尊い供養の形なのだと、今日の良き日に改めて確信しています。
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