​世の中にあふれる様々な情報を見つめ直すとき、正しい事実を知ることで初めて見えてくる本質があります。たとえば、私たちが何げなく目にする国際人道支援の現場や、そこにまつわる様々な仕組みもその一つです。
​世界中の子どもたちを救うためのユニセフの募金活動には、知っておくべき明確な仕組みの違いがあります。
女優の黒柳徹子さんが開設されている個人口座へ直接振り込むルートは、事務費や運営費の手数料がゼロであり、その100%全額が直接ニューヨークのユニセフ本部に送金されます。
一方で、日本の国内窓口である日本ユニセフ協会に振り込むと、集まった募金の約20%弱が国内での広報活動や提言活動、団体の維持運営費として活用されます。
日本国内で活動を広く認知させ、組織を持続させるためにはこの運営費も必要不可欠な現実であり、決して不正なものではありません。しかし、もしみなさんが「自分の差し出したお金を、1円の目減りもなくそのまま100%全額、一刻も早く海外の現地本部に届けたい」と願うのであれば、黒柳徹子さんの直接窓口へ振り込む方法を強くおすすめします。
​私はかつて事業会社の社長として経営の第一線にいましたが、重度障害を負ったことを機に退き、現在は非営利団体の活動や様々な人道ボランティアに参加しています。主に対象としているのは、日本国内で厳しい状況にある生活弱者の方々の救済です。
このような人道活動において、日本人として、そして表現者として、まさに利他の精神を体現し続けている代表的な存在が黒柳徹子さんです。ここで改めて、彼女のこれまでの歩みを振り返ってみたいと思います。
​黒柳徹子さんは、高名なバイオリニストの父のもと東京の乃木坂に生まれました。幼少期は、自身のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』の舞台となったトモエ学園で、ユニークで自由な教育を受け個性を育みます。戦争末期には青森の農村へと疎開し、厳しい戦中戦後を生き抜きました。
その後、東京音楽大学の声楽科を卒業した彼女は、1953年にNHK放送劇団へ入団します。それは日本にテレビ放送が始まった年であり、彼女は「日本のテレビ女優第1号」という記念すべき存在となりました。当初はその個性的な声や演技に戸惑うディレクターもいましたが、劇作家の飯沢匡氏に才能を見出され、ラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』で大ヒットを記録。そこから『夢であいましょう』などの人気番組に次々と出演し、週に10本ものレギュラーを抱えるトップスターへと上り詰めました。1976年には今も続く伝説的なトーク番組『徹子の部屋』がスタートし、同一司会者による最多放送回数の世界記録を更新し続けています。
​しかし、このような華やかな芸能人としての姿の裏で、彼女は「影の姿」として、世界の最も危険で過酷な地域へと足を運び続けていました。
1984年、アジア人で初めてユニセフ国際親善大使に就任した彼女は、それ以来、ほぼ毎年途上国を訪れました。夏の気温が50度、冬は零下25度にもなるアフガニスタンの難民キャンプ。内戦下のコートジボワールでは、路頭に迷い武器を持たされていた幼い子ども兵たちの凄惨な現実を目の当たりにしました。また、破傷風の予防接種1本が買えないために、体中の筋肉を硬直させて苦しみながら亡くなっていくインドの男の子の手を握り、看取ったこともあります。大地震に見舞われた直後のハイチでは、自らも全てを失った子どもたちが日本への応援歌を歌ってくれた姿に涙しました。
華麗なドレスを脱ぎ捨て、埃と瓦礫にまみれ、時には10時間以上も悪路に揺られながら、彼女は一人の人間として、泥の上に座る子どもたちの命を守るために戦ってきたのです。
​90代を迎えられた今もなお、黒柳徹子さんがこれほどまでにお元気で、人道支援の第一線に突き進んでおられるのはなぜでしょうか。
それは、敗戦直後の動乱期、飢えに苦しんでいた日本の子どもたちに向けて、ユニセフが当時のお金で65億円分もの支援物資を届けてくれたという「無償の愛」に対する、生涯をかけた恩返しという強い使命感があるからです。そして、現地で出会った子どもたちが過酷な環境の中でも見せてくれた、力強い笑顔と命の尊さが、彼女の尽きることのないエネルギーの源泉になっているに違いありません。その尊いお姿と功績に、心からの称賛を贈ります。
​彼女が灯し続けた人道支援の灯火は、決してここで絶やしてはなりません。私たちは、その気高い生き様から大きなバトンを受け取っています。高額な寄付はできなくとも、日々の生活の中で誰かを思いやり、自分にできる小さな支援を何度も積み重ねていくこと。その温かい心の連鎖こそが、次世代の私たちが果たすべき役割であり、トットちゃんが命をかけて私たちに示してくれた未来への道標なのです。