​福祉支援団体 EYESROOM(アイズルーム)のブログへようこそ!
​先日、ブログでも少し触れましたが、ヘレン・ケラーに関するイベントに参加してきました。
​ヘレン・ケラーという人物は、多くの人々に勇気と希望を与え続けている存在です。彼女は1880年6月27日にアメリカのアラバマ州で生まれました。生後19ヶ月(1歳7ヶ月)のとき、当時の診断で急性脳熱と呼ばれる高熱を伴う重い病気にかかり、視覚と聴覚の両方を失いました。見えず、聞こえず、そして言葉を喋ることも困難になるという、いわゆる盲ろうの状態となったのです。
​しかし、彼女の人生はそこで終わりませんでした。家庭教師であるアン・サリバン先生との出会いによって、手に指文字を書くことで言葉の概念を学び、水という言葉を通じて世界と繋がる手段を獲得しました。その後、凄まじい努力によってラドクリフ大学(現在のハーバード大学の一部)を卒業し、障害者の権利擁護や社会福祉の向上、女性参政権運動など、生涯をかけて社会貢献活動に捧げました。彼女の存在は、重い障害があっても教育やサポートがあれば可能性は無限に広がるということを世界中に証明したのです。
​ヘレン・ケラーの功績を知り、私は自分自身の幼少期の体験と重なる部分があることに気づかされました。私自身、現在は全盲ですが、目を失ったのは50代後半になってからです。
​思い返せば小学生に入った頃、千葉県の海岸へ潮干狩りに行った際、誤って汚れた海水をかなり飲み込んでしまいました。最初は風邪程度だと思っていたのですが、その後40度を超える高熱が続き、当時柏市で一番大きかった岡田病院に緊急搬送されたときには意識不明の状態でした。
​そこから丸3日間、意識不明のまま生死の境界線を彷徨いました。医師からは親に対し、高熱と意識障害がこれほど続くと、たとえ目が覚めたとしても脳に重い後遺症が残る可能性が高いと告げられていたそうです。母親の懸命な看病と医療従事者の皆様の手厚いサポートのおかげで、私は3日後に奇跡的に意識を取り戻しました。
​目を覚ました際、目の前にいた医師から、飼っているペットの名前や姉の有無といった簡単な質問を投げかけられました。ボーッとした頭の中で必死に考え、答えたことを覚えています。後から考えれば、医師は脳へのダメージや言語障害、意識障害が残っていないかを確認していたのだと思います。ヘレン・ケラーが幼少期に高熱から盲ろうになった経緯を知ったとき、私もあの小学生の段階で、一歩間違えれば重い後遺症や盲ろうになっていた可能性があったのだと痛感しました。
​ここで、高熱や感染症によって脳や神経に重篤な被害をもたらす髄膜炎という病気について触れておきたいと思います。
​髄膜炎とは、脳と脊髄を包んでいる髄膜という膜に炎症が起きる病気です。主な原因はウイルスや細菌、真菌などの感染です。日本神経学会や厚生労働省などの医学的知見に基づくと、特に細菌性髄膜炎は非常に進行が早く、適切な治療が遅れると生命に関わる危険性が高いとされています。病原体が血液や神経経路を通じて髄膜や脳脊髄液に侵入すると、高熱や激しい頭痛、嘔吐、意識障害を引き起こします。
​さらに、炎症が脳神経や内耳に及ぶと、後遺症として視神経障害による視力低下や失明、聴神経障害による難聴やろう化、さらには運動機能障害や認知機能の低下が残ることがあります。ヘレン・ケラーが罹患した病気も、現在では急性髄膜炎や猩紅熱であった可能性が極めて高いと分析されています。髄膜炎は、一瞬にして人間の感覚器官や脳機能を奪い去る非常に恐ろしい病気なのです。
​私は50代後半で全盲となり、視覚障害者としての当事者となりましたが、ヘレン・ケラーの歩んだ道や自らの幼少期の経験を通じて、視覚障害だけでなく、見えず・聞こえないという厳しい環境に置かれている盲ろう者の方々への理解と支援の重要性を改めて強く感じています。
​過酷な試練を克服し、社会を変えていったヘレン・ケラーのように、私も絶望に立ち止まるわけにはいきません。私には、大きな夢があります。
​それは、視覚障害者や盲ろう者をはじめ、いかに重い障害を抱えていても、当たり前に自分らしく暮らし、協力し合える共生社会を作り上げることです。障害の有無にかかわらず、全ての人が等しく尊重され、笑顔で暮らせる社会を実現するために、これからも福祉支援団体 EYESROOMの活動を通じて皆様とともに力強く歩んでまいります。
​盲ろうや視覚障害への理解を深め、誰もが生きやすい未来を共に作っていきましょう。これからも温かいご支援とご協力をよろしくお願いいたします。