​《春の散策と予期せぬ身体の異変》
​4月12日の日曜日、私は桜の名残を惜しみ、健康維持も兼ねて新宿御苑を歩きました。9000歩という充実した距離を歩き通しましたが、その翌日から私の身体を正体不明の激しい熱が襲いました。体内で謎の炎症が激しく燃え広がるような、逃げ場のない高熱です。一週間、何とか車を使いながら予定していた行動を済ませましたが、身体の芯を削られるような苦しい日々が続きました。
​ようやく熱が引き始めた4月19日の昨日、私はリハビリを兼ねて柏の葉公園へ向かい、4000歩を歩きました。(上記写真がその時の画像です。)新宿御苑も柏の葉公園も、まだ私に目が見えていた晴眼者の頃に住んでいた場所の近くであり、風景が鮮明に目に浮かぶほど思い出深い場所なのです。昨日の柏の葉公園は最高気温25度、まるで夏が早足でやってきたような強い日差しに包まれていました。野球場からは試合に集まる多くの見物客の活気が伝わり、夏を愛する私の顔は、少し赤くなるほど日焼けしました。
《不眠不休の努力で手にした赤いスポーツカー》
​この日焼けした顔に、ふと若かりし頃の自分を重ねました。高校時代、私は周囲の同年代とは一線を画す生活を送っていました。24時間営業の蕎麦屋で、夜間の過酷なワンオペレーション業務に心血を注ぎ、自らの力で資金を蓄えました。そうして免許取得と同時に、努力の結晶として新車で購入したのが、私自身の真っ赤なスポーツカー(トヨタ86トレノ)でした。
​金曜の夜、その愛車を走らせ、柏から霞ヶ関まで高速道路を飛ばす時間は、私にとって自由の象徴でした。路上駐車をして、DCブランドのスーツに着替え、夜の街へ。「エリア」や「ジパング」といった当時のディスコで朝まで踊り明かし、早朝そのまま千葉の海岸「御宿」まで車を走らせてサーフィンに明け暮れる。そんな、遊びにも命を懸けるような熱い時代がありました。
《経営者として駆け抜けた日立メディコでの日々》
​平日は、当時仕事を請け負っていた「日立メディコ」の現場に入り、最先端医療機器のソフトウェア開発に心血を注いでいました。ここで明確にしておきたいのは、私は決してどこかの会社に所属するサラリーマンとして働いていたわけではないということです。若くして経営者としての立場を確立し、日立メディコに場所を借り、自ら人を雇ってチームを率いてプロジェクトを完遂させる。それが私のスタイルでした。
​毎日残業するか、あるいは徹夜でプログラミングと格闘するのは当たり前。昭和という時代は、誰もが必死に、そしてがむしゃらに前を向いていました。仕事も遊びも、常に命がけで限界を攻めるような生活。その激動の中で出会いがあり、結婚し、二人の子供を育て上げました。昨日歩いた柏の葉公園は、そんな多忙な日々の合間に、子供たちと一緒に何度も通った大切な記憶の場所なのです。
《富の絶頂、そして黒のセンチュリーリムジン》
​事業が軌道に乗り、拠点を東京へ移すと、私の世界はさらに巨大な富と華やかさに包めていきました。接待の場は六本木の高級クラブ「グランデ」や「ピアノ」へと移り、移動手段もまた、成功を象徴する特別なものへと変わりました。
​最初に手にしたのは、アメリカ製のハイルーフ大型バンでした。その天井一面にはネオンのように流れる電光掲示板が走り、車内には大画面ディスプレイが鎮座していました。7人がゆったりと座れるソファーのような革張りシートに身を預ける感覚は、日本車とは比較にならないほど優雅でダイナミックなものでした。
​さらに会社が成長を遂げると、私は漆黒のセンチュリーのリムジンへと車を買い替えました。それは皇室も御乗用される、トヨタの最高級セダンをベースにした特別仕様のリムジンです。後部座席に深く座り、静寂の中で流れる景色を見つめていたあの頃、私はまさに夢の中にいました。こうした贅を尽くした生活が可能だったのは、私の会社がつくばエクスプレス沿線開発の指定業者に選ばれ、足立区から守谷までの広大な行政の仕事を請け負っていたからです。銀座1丁目のタワーマンションから、リムジンの後部座席で街を見下ろしていたあの8年間は、今振り返っても目も眩むような光の時間でした。
《暗闇の中で見つけた、真の人生価値》
​しかし、全盲となった現在の私は、かつての豪華な生活とは真逆の道を歩んでいます。大型リムジンを乗り回す代わりに、今は杖を手に、バスや電車を乗り継いでコツコツと一人でクライアント先を回る毎日です。見ず知らずの人に道案内をしてもらい、一日に何度も「ありがとうございます」とお礼を言っています。
​もし、私の人生が一生うまくいき、あのまま光の中にいたとしたら、私は貧困に苦しむ人の気持ちや、ホームレスの方、あるいは障がいや難病で悩む人々の心の震えを、本当の意味で理解することはできなかったでしょう。驕りに満ち溢れ、大切なものを見落としていたに違いありません。
​今の私にとって、カップラーメンを食べる生活もまた、人生の価値観を知るための尊い勉強です。かつての夢のような生活を知っているからこそ、今の地味で、人々に助けられながら感謝を捧げる人生に、比類なき価値があると確信しています。
《光溢れる丘の聖地、母との別れと墓問題》
​今週、私は90歳で生涯を閉じた母の四十九日と納骨を迎えます。場所は北小金駅から歩いて8分ほどの、風通しの良い高い丘の上。そこは遮るものもなく、常にまぶしい日差しを浴びられる、穏やかで美しい場所です。
​新たに設えた墓石には、石原家の文字の右下に、可憐な桜の模様が彫り込まれています。それは単なる飾りではなく、石という硬質な素材の中に、母の面影を永遠に刻み込むかのような深く、精緻な彫り物です。石を削り、形作ることで表現されたその模様は、指でなぞればその彫りの深さから職人の技と母への想いが伝わってくるようです。
​複雑な家庭環境を通り、二度の離婚という経験を重ねてきた私にとって、守るべきお墓はこれで三つ目となりました。息子は仕事の都合で来られませんが、娘とは会える予定です。しかし、息子は「墓などの面倒は見ない」とはっきり口にしています。自分がこの世を去るまでに、これらの墓をどう整理し、跡を濁さず片付けるか。これは私に残された、非常に現実的で重い課題です。
​体調を万全に整え、あの光に満ちた丘で母を送り出したいと思います。狂乱の夜を駆け抜けた若き日、リムジンの窓から見た銀座の夜景、さらに暗闇の中で知った人の温もり。その全てを拾い上げ、抱きしめながら、私は今、自らの人生を深く瞑想しています。この不自由で豊かな日々こそが、私の歩むべき真実の道なのだと信じて。